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小池めぐみを応援してくださっている皆さまへ

私の過去のツイートや行動でご不快な思いをされた方、驚かれた方、不安な思いをさせてしまった方、
このたびはご迷惑、ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。

私とフェミニズムとの出会いは物心ついた頃に始まります。
暴力と暴言が溢れる家庭で育ち、母が苦しむ姿を見ながら何もできない幼い自分に無力感を感じて育ちました。「女性」であるということだけで、自由も言葉も奪われる現実に直面し、迷い、苦しみながら成長しました。
思春期になってからは「ブス」と言われて男の子からいじめられるようになり、女であることをどうやって受け入れて乗りこなしていけばいいのか、生まれてきたことさえ肯定することが難しいと思っていた時期もあります。ただ、一人の人間として生きたいのに、そうさせてもらえない、女がついて回る。

「女だから」「女のくせに」という呪いの言葉を浴びずに済むように、苦しまないように、溶け込めるように、なんとか流れに乗ろうとしたこともあります。「女」を乗りこなすことで、私はうまくやっていると思っていた時もありました。
でもそのすぐそばには搾取があり、差別があり、暴力があり、不公平がありました。私が自分の心と体を自分のものとして愛せるようになるまでには、長い長い葛藤と闘いの歴史があります。

その過程で、回り道もしたし、壁にぶち当たったり、自分でわざわざぶち当たりに行ったり、人を巻き込んだり傷つけたりしたこともたくさんあります。間違いもたくさんあったと思います。
自分で飛び込んでみて、自分の身体で感じ自分の頭で考え理解することなしには、私自身を肯定することができなかったのです。非常に不格好に生きてきました。

その葛藤と闘いは結婚をして子どもを産んでからも続きます。
子育ての中でも、女が言葉を奪われて「母」にならなければいけないこと、働く時間や働ける場所を制限されて、見える世界がどんどん狭まっていくことに焦ったりしました。
「若さ」というものが次第に失われていくことも自分の価値が目減りしていくような気がして、抗っていた時期もありました。
母になり、落ち着いた大人になっている同世代の友達に心配されながら、まだジタバタともがいていました。

「若さ」や「女らしさ」こそが女に科せられた呪いであることを、私は生活の中で、そして本や映画を通して、1つずつ学び、1つずつ言葉を手に入れていきました。そしてその呪いを、1つずつ手離してきました。

私の過去の過激な言葉の数々に不快な思いをされた方がいることは申し訳ありません。
自分が区議予定候補となる未来を1mmも想像していなかった頃に書いた、粗削りな自尊心の発露です。
それでも、自分自身を愛そうとする試みの一部だったと今は思っています。

女性が自分の身体のことを自分で決めることが未だにできない。
生理痛で休むことも憚られることや、中絶するにも配偶者のサインが必要なこと、そして未だに緊急避妊薬が薬局で手に入れられないこと、経口中絶薬の承認が世界よりも何十年も遅れていること。肌を露出していてもいなくても痴漢に遭うのに、短いスカートを穿いていれば「そういう恰好をしているから」と言われること。

「若くあれ」「美しくあれ」「上品であれ」「わきまえた女であれ」「母親になったら自分のことは二の次であれ」とその時々で「女性」を押し付けられること。
子どもを産んだ後に、就業を継続している女性は53.1%であること(2016年国立社会保障・人口問題研究所「第15回出生動向基本調査(夫婦調査)」)。
非正規雇用で育休を取ることもできずそもそも出産を選択できずにいる女性がいること。
私がぶち当たってきた壁の数々が、家父長制のシステムの中で私以外の多くの女性も苦しんできた壁だったのだということを知ることになります。

それはまた、「男らしくあれ」「強くあれ」「稼げ」「長時間働け」「弱音を吐くな」と男性をも無意識のうちに苦しめていることに気づきます。そこから外れてしまっている人はどうしたらいいのだろう?
「男らしく」も「女らしく」も自分にピッタリ合わない、という人だっています。

だからこそ、私が味わってきたような苦しみを若い世代や子どもたちには感じてほしくない。
ジェンダー平等が実現しないのは、政策決定の場に女性が少ないからだと思うようになりました。

私が壁にぶち当たり、もんどり打ちながらも、乗り越えてきた闘いを、若い世代のために活かすことはできないかと思うようになりました。
子育てをしながら、メディアや教育の場でジェンダーがひたひたと子どもたちに浸透していく様子を見て、私なりにそれに抗い「自分らしく」いていいんだよ、と伝える作業をおこなってきたつもりです。

自分の子どもには小さな頃から、自分を愛せるように、他人を尊重できるように、その根幹を為すものとして、性教育もおこなってきました。
その年齢に合わせて絵本を読んだり、率直な疑問にその年齢の子どもがわかる言葉で答えたりしてきました。
そうした長年の積み重ねの上で、今なら「見たい」と言われたことに答えても大丈夫かな、と思って女性の性器の存在を教えました。しかし、小3の息子に性器を見せたことは、合意があったとは言え、子どもの権利を尊重する上では問題があったことを認め、他の方法があったのではないかと今は反省しています。

男の子は小さい頃から自分の性器を1日に何度も目にすることができますが、女の子は自分の身体の一部であるのに自分の性器をまじまじと見る機会もありません。そしてその言葉を人前で口に出すこともできません。まるでその存在が忌避すべきものであるかのようです。私はそのことこそが女性から言葉を奪い、女性が生身の人間であることを消してしまっているように思ってきました。女性の生身の体や生身の性器は無色透明化されるのに、巷には目に見えるところに性的なコンテンツが溢れていることも、女性が人間ではなくて消費していい存在のように思わされている気がします。

人間には心があって、ひとり一人が違うこと、誰もが尊重されるべき存在であることを幼いうちから知って、自分も他人も大事にしてほしい、と私は思っています。
そして、性暴力や性搾取をこの世界からなくすために私にできることをこれからも考えていきたいと思っています。

私は不器用で未熟な人間ではありますが、こうしてもがき、傷つきながらも手に入れてきた自分の言葉と実感を持って、今、自分の暮らすまちと、このまちで暮らす人たちのためにできることを全力でがんばろうと思っています。

生まれてきたからには、幸せに生きたいからです。
憎悪に憎悪で負けたくないからです。
冷笑主義にも自己責任主義にも抗いたいからです。
か細い声で泣いている人の苦しみを見過ごしたくないからです。
だから戦争には全力で反対します。
一人一人の声を奪わないでほしいと願うからです。

私の発してきた言葉の数々は決して褒められたものではありませんし、今は軽薄だったと深く反省しています。しかし、それも含めて「小池めぐみ」です。逃れようのない自分です。

今後は、日本共産党の区議選候補者という立場で、みなさまからいただいた声を大切にし、性教育に関しても子どもの権利に関しても、ジェンダー平等に関しても学びを深め、あらゆる人の人権が尊重される社会の実現のために努力します。最後までお読みいただきありがとうございました。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

                                   2023.2.22  小池めぐみ

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